外の世界と内の世界
思えば物心ついた時から、なんで周りの人はあんなに外の世界に一生懸命にのめり込めるんだろう、と思っていました。 私は、といえば基本的に自分の内面の世界にしか興味が持てず、自分の中での様々な空想や妄想に没頭し、自分自身の中に沸き起こる感覚をもてあそんで楽しんだりしていました。 みんな自分の世界から一生懸命に目を逸らし、まるで恐ろしいものから逃げるように、外の世界の出来事に没頭する。 なぜみんな自分の内面の世界に興味がないんだろう、なぜそれを見ることを頑なに拒むんだろう、こんなに楽しいのに、と不思議に思っていましたが、いつしかこの世界ではそれが当たり前なのだ。そしてそれをしない自分のほうがおかしいのだ。と思うようになりました。 でも、外の世界は私にとって「つまらない」ものでした。 何か楽しむための型みたいなものがあって、それが次々と提供されていく。みんなが好きな型はおまえも好きなはずだ。なぜ興味を持たない?じゃあおまえの好きな型はなんだ?そんなものない?そんなわけないだろう?おまえの型を教えてくれ。何かあるだろう? そんな世間の無言のプレッシャーみたいなものをいつも感じていましたが、言語化できるわけもなく、モヤモヤしながら結局世間に迎合していました。 そしていつしか、自分も世間のプレッシャーに飲み込まれ、そして無意識のうちに自分がプレッシャーを与える側にもなっていきました。 そうなるとどれが本当に自分の望むことなのか、それとも「望まされている」のか、どんどん見分けがつかなくなっていきます。 そして、いつしか曖昧な意識の中で考えることを止め、主体的に選ぶことを止め、自分の世界を見ることを止めてしまいました。 しかし徐々に時代が変わり、内の世界が大事にされ、それぞれが自分の世界をつくり、発信し、響かせ合う、そんな時代がやってきました。 私は今では外の世界も内の世界も両方楽しめるようになりました。 それでもやはり、内の世界を見ること、体感すること、そして創造していくこと。それを楽しむことは止められません。きっとこれからもそうでしょう。