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外の世界と内の世界

思えば物心ついた時から、なんで周りの人はあんなに外の世界に一生懸命にのめり込めるんだろう、と思っていました。 私は、といえば基本的に自分の内面の世界にしか興味が持てず、自分の中での様々な空想や妄想に没頭し、自分自身の中に沸き起こる感覚をもてあそんで楽しんだりしていました。 みんな自分の世界から一生懸命に目を逸らし、まるで恐ろしいものから逃げるように、外の世界の出来事に没頭する。 なぜみんな自分の内面の世界に興味がないんだろう、なぜそれを見ることを頑なに拒むんだろう、こんなに楽しいのに、と不思議に思っていましたが、いつしかこの世界ではそれが当たり前なのだ。そしてそれをしない自分のほうがおかしいのだ。と思うようになりました。 でも、外の世界は私にとって「つまらない」ものでした。 何か楽しむための型みたいなものがあって、それが次々と提供されていく。みんなが好きな型はおまえも好きなはずだ。なぜ興味を持たない?じゃあおまえの好きな型はなんだ?そんなものない?そんなわけないだろう?おまえの型を教えてくれ。何かあるだろう? そんな世間の無言のプレッシャーみたいなものをいつも感じていましたが、言語化できるわけもなく、モヤモヤしながら結局世間に迎合していました。 そしていつしか、自分も世間のプレッシャーに飲み込まれ、そして無意識のうちに自分がプレッシャーを与える側にもなっていきました。 そうなるとどれが本当に自分の望むことなのか、それとも「望まされている」のか、どんどん見分けがつかなくなっていきます。 そして、いつしか曖昧な意識の中で考えることを止め、主体的に選ぶことを止め、自分の世界を見ることを止めてしまいました。 しかし徐々に時代が変わり、内の世界が大事にされ、それぞれが自分の世界をつくり、発信し、響かせ合う、そんな時代がやってきました。 私は今では外の世界も内の世界も両方楽しめるようになりました。 それでもやはり、内の世界を見ること、体感すること、そして創造していくこと。それを楽しむことは止められません。きっとこれからもそうでしょう。

見えない世界が視えるようになるまで 3

前回 の続き 首里城で出会った女の子とはその後も何度か行って話していました。 話す内容といえば日常で起こったことや悩み相談等、本当に他愛もない話でした。 しかし会う度に感じていたのが「この子は何か深い悩みを抱えている。でもそれを私に話すつもりはないらしい」ということでした。 そこで、何か力になれないかと思い、その時やっていたホ・オポノポノを教えてあげることにしました。(ホ・オポノポノに関してはまた何か記事にしようと思っています) 「ずっとそこにいて退屈でしょ?ホ・オポノポノというのがあって、ありがとう・ごめんなさい・許してください・愛してますと唱えているだけで気分が軽くなれるよ」 と言うと 「ありがとう、早速やってみるよ」 と彼女は言って、その日は別れました。 しばらく経ってからその子のところに行ってみると、いつもの場所で感じる彼女の気配がありませんでした。 どうしたんだろう?と思って、ふと上を向くと、キラキラした女神のような彼女がいました。 「ありがとう。教えてくれたホ・オポノポノのおかげでとても軽くなって、光が満ちてきたの」 と言いました。 その時の彼女は今までの女の子ではなく、まるで女神のような、大きな姿でキラキラしていました。 今はその場所に彼女はいませんが、場所に関係なくつながることができるようになりました。 そんな出来事があってから、私は「もしかして自分には見えない世界を視る能力があるのかもしれない」と思い、あちこちの神社やお寺、御嶽やパワースポットと呼ばれる場所にいって、見えない存在とコンタクトを試みました。 イメージで見えるときもあれば全く感じないときもありましたが、コンタクトを試みる毎にその感覚がだんだん研ぎ澄まされていきました。 そして、闇雲に繋がるだけでなく、つながったときに心地いい感じ、悪い感じがあることがわかりました。 心地いいと感じた時だけつながるようにし、心地悪いと感じたらすぐにコンタクトをやめて般若心経を唱えたり、粗塩をまいて浄化するようにもしていました。 (もし見えないものとコンタクトをとろうと思う方は、自分自身の感覚を大切にしてください。心地悪いと思ったり違和感を感じたら、すぐにコンタクトをやめて離れるようしてください) そして、その後はスターシードという概念も知り、宇宙ともコンタクトをとるようになりました。 ここまでいろいろ物語

見えない世界が視えるようになるまで 2

前回 の続きです。 母の写真のことがあってから、自分には第六感みたいなものがあるのかも?となんとなく思いましたが、その後は特に何もなくそれっきりでした。 その後もスピリチュアルなことに興味はあって、いろんな本やブログやyoutubeを見ていましたが、特に能力が身についたりはせず、ある意味エンタメ感覚で楽しんでいました。 そんなある日、私は首里城に散歩に行きました。小さい頃首里に住んでいて懐かしさを感じるのと、首里城とその周りの雰囲気が大好きなので、たまに散歩に行っていました。 その中に京の内という場所があって(氣になる方は調べてみてください)小さい森のような場所なんですが、そこのとあるガジュマルがあるスポットがすごく好きでした。 今まで何度も来たことはあったんですが、その時はいつものスポットの前に来た時に、 なぜかふと頭の中に女の人のイメージが浮かんできました。 歳は10代前半くらい、白装束のようなものを着ていて顔ははっきりわかりません。 まあ自分の思い込みだろうなーとは思いつつ、半分遊びみたいな感じでその人に話しかけてみることにしました(頭の中で) 「こんにちはー。〇〇から来たマコトです」と挨拶すると、 「やっと氣づいてくれたのねー」 という女の人の声があり(頭の中で) びっくりして、 「話せるんですか?」 と聞くと、 「私はずっと話しかけてたよー。アナタが氣づかなかったんだもん」と言われました(笑) 頭の中の声ですが、明らかに普段の自分の声と違う女の人の声だった のでちょっと戸惑っていました。 そして、見た目と違ってちょっと今どきの女の子っぽいな〜と思いながらも、その後もいろいろ話を続けました。 まるで昔からの友達みたいにこちらの話をウンウンと楽しそうに聞いてくれるのですが、彼女自身のことを話すことはほとんどなく、名前や何をしているのかを聞いてみても全然答えてくれませんでした。 かなり長い間そこにいるらしく、とても明るい感じの人でしたが、どこか寂しそうでもありました。 それでも、私は秘密の友達ができたような気持ちになり、嬉しくなってその後も何度かそこに足を運んで、いろいろと他愛のない話をしていました。 そんなある日、、、 またまた 次回 に続く! (引き延ばしてすいません、次回でラストです)

見えない世界が視えるようになるまで 1

前回 の続き この記事では、私が見えない世界をどうやって視えるようになったか、という話をします。 私の場合は感覚で感じるタイプなので、そもそもそれが見えない世界のエネルギーだということに氣づきませんでした。 小さい頃から何だかこの世界はいつもカオスで、ぐちゃぐちゃしてて、どこにいっても気の休まらない世界だと思っていましたが、それは無差別にいろんなエネルギーを感じ続けてたからだと今になって氣づきました(笑) いつも疲れやすくて、頭の中がいつもパンパンで、どこにいっても休まらない。今から考えると センサー開きっぱなしで、コントロールする方法を知らなかった んだなって思います。 はっきりと見えたり聞こえたりではなかったので、 見えない世界に関してはそもそも否定的でした。 スピリチュアルに興味を持ち始めたのは24,5歳の頃で、その時も自分に全くそんな能力があると思わず、 お金を払って講座に行くか、誰かに弟子入りして修行しないとそんな能力は身につけられない と思っていました。 本やブログやYoutubeでスピリチュアルなことをやっている人達を知って、自分もあんな能力があればなー、でもお金も誰かに弟子入りする勇気もないし、、、と思ってました(笑) それとは別に、当時メンタル的にはボロボロだったので、セドナメソッドや潜在意識の知識を得ながら、自分の心と向き合うことをひたすら続けていました。 そんなある日、 急にフッと心が楽になれる瞬間 がありました。 疲れきってベッドに倒れこんだときの安心感というか、急に見えている世界がキラキラして優しく見えて、本当は自分とつながっている一つのものなんだ、ということが体感で腑に落ちたんです。 それをワンネス体験とか、悟りとか覚醒とか呼ぶ人もいるかもしれません。 でもそんな大げさなものじゃなくて、ただ自分のデフォルトの体感が変わっただけで、それで急にスピリチュアル能力が開花したとか、何か奇跡やスゴい体験をしたとかそういうのは全くありませんでした。 でも心が楽になれたので、ようやく仕事を始めることができました。それまではとても仕事なんてできるメンタル状態ではなかったので。 それからは仕事に集中し、スピリチュアルなことからはしばらく離れていました。 その後、いろいろあって入院していた時に、母がお見舞いに来ました。 その時になぜかふと、「母に、自分の両親

見えない世界が視えること

このブログではスピリチュアルな話題も少しずつ書いていこうと思います。 いわゆる私は「見えないものが視える人」です。視えるといっても視覚で直接見えるわけではなくて、 感覚と頭の中のイメージで視ています。 何を視ているかというと、まずその人が発するエネルギーのようなもの(オーラとか波動とか感情とか)を感じとっています。 そしてそれを頭の中のイメージや言葉に置き換えて表現することができます。 これは、氣づかずに無意識にやってる方も結構多いかもしれません。いわゆる日本人的な「空気を読む」ってやつですね。 それから、宇宙存在、神様や仏様、天使、精霊、龍等のエネルギーを感じ、つながってコミュニケーションをとることできます。 霊的なものも感じることはできますが、私は積極的に関わりたくないので、なるべくつながらないようにしています。 これも視覚で見えるわけじゃなくて、頭の中で神様や天使や龍をイメージして、「つながろう」と意図するとつながります。そのイメージも、どっかで見たことある絵とか写真だったり、場合によっては普通のオジサンっぽい人とかアニメキャラみたいなやつだったりします(笑) その存在のエネルギーが感じられれば、別にイメージは何でもいいって感じです。 また、なんとなくいい感じ・イヤな感じ、体がゾクゾクする感じ、浮き上がる感じや引っ張られる感じ等、体感があることも多いです。 だから私は基本的に エネルギーを感じ取って、それを頭の中でわかりやすい形に変換して、見えない世界を視ている って感じです。 見えない世界を視る感覚は人によって本当に様々で、ちゃんと視覚で見える人、声だけ聞こえる人、名前と生年月日を聞くとイメージが見える人等、その人の得意な感覚で視えるみたいです。 次の記事 では、私がどうやって視えるようになったか?について書いていきます。 個人セッションも受け付けています

自己肯定感を上げる

自己肯定感を上げる、という言葉があります。自分自身を認める、受け入れる、愛するとも言い換えられます。 自己肯定感を上げるには、自分自身に愛してる、素晴らしい、大丈夫、できるよ、等と肯定的な言葉を事あるごとにかけてあげるのもいいでしょう。 それから、自分を大切にする行動をとる、例えば好きなことをしたり、欲しいものを買う、といったこともいいですね。 もっといいのは、 自己否定をやめることです。 実は 100%自分を肯定しているのが人間の本来の状態です。 それは人間に限らず、植物、動物、そして生き物に限らず この世界の全ての存在は100%自分を肯定しているのが当たり前です。 例えば、植物が「自分はダメなやつなんだ、、、」と思ってはいないでしょう(笑) なんの疑いもなく100%堂々とありのままで存在しています。 これは動物でもそうだし、意思を持たない物質でも、100%そこにありのまま存在しています。 なのに、 人間だけが「自己否定」という特殊能力を使ってる わけです(笑) つまり、がんばって自己肯定感を上げなくても、 自己否定をやめてしまえば勝手に100%自己肯定という状態に戻ってしまう というわけです。 そうはいっても、無意識に染み付いた自己否定の癖はなかなか厄介なので、自分がどんな自己否定をしているか、に気づいていきましょう。 自己否定の思考、信念、感情は100%全てウソ、思い込みです。 どんなにそれがリアルで真実のように思えたとしても、 本来の自分からしたら全て幻想、妄想 なわけです。 この視点を覚えておくと、自己否定に対する向き合い方が変わります。 「はいはい、自分ダメとかうっそー」と相手にしないもヨシ。「そっかー、自分ダメって思ってたんだね。よしよし」と慰めるもヨシ。 こうやって自己否定と向き合っていくと、がんばらなくてもいつのまにか自然と自分を肯定している自分に気づきます。 もちろん、最初に挙げた自己肯定感を上げる方法を併用してもいいと思います。 でも、 無理してがんばって自己肯定感を上げようとするより、まずは自己否定を止めるほうが近道 だと私は思います。

自分を責めることのメリット?

 先日友人とのやりとりで、「自分を責める」というキーワードが出てきました。 どうして人は自分のことを責めてしまうのでしょうか? それは 「自分にメリットがある(と思っている)」 からです。 以前の記事で、人は自分にメリットがあることしかしないという話をしました。 そのメリットとは 「心地よさを感じること」 です。 自分を責めることに心地良さを感じるわけないじゃん!と思うかもしれませんが、 無意識のうちにそれが心地良いと勘違いしている思い込みがある のです。 ここで、その思い込みを知るためにちょっとしたワークをしてみましょう。 それは、 自分を責めることのメリットとデメリットを書き出すこと です。 ノートでも携帯のメモ帳でもなんでもいいのですが、メリット・デメリットをそれぞれ書いていきます。 例えば私の場合、 自分を責めることのメリット ・ダメな自分が変わってより良くなる ・自分に厳しくしたほうがより成長できる ・先に自分を責めておくことで、人から責められるダメージを軽減できる ・自分を責めていれば、自分に厳しい人として周りから褒められる ・自分を責めていたほうが、物事がうまくいく ・自分を責めていたほうがなんとなく落ち着く などなど、、、 自分を責めることのデメリット ・単純に気分が悪い ・自分を責めるのはよくないっていろんな人が言ってる。なんか本当っぽい(笑) こうしてみると、メリットの方めっちゃ多いですね(笑) でもよーく見てください。実は メリットのほうは全て自分の思い込み なんですよ。 つまり、自分を責めたらいろんな理由で心地良くなれると思ってるけど、そのどれもが心地悪くなることばっかりなんです(笑) 自分を責めたら成長できる、褒められる、傷つかない、うまくいく、、、なんて思ってますが、別にそれは自分を責めなくても得られるものです。自分を責めたからといってそうなるわけでもありません。 つまり、 自分ルールを設定して、自分を責めたら心地良くなれると勝手に思い込んでいただけ なんですね。 そこまで気づいたら、あとは簡単。メリットに書いた自分ルールを手放して、書き換えてしまいましょう。 自分を責めることにメリットは一つもない 、と。 みなさんも自分でワークしてみて、自分がいかに自分を責めることにメリットを感じているか、そしてそれは全く必要ないんだということを、ご自